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考える面白さはこの上なく美味/意識・人間・心・世界・なんでも・霊魂研究/世界は大激動し始めた

考える面白さはこの上なく美味/意識・人間・心・世界・なんでも・霊魂研究/世界は大激動し始めた

霊魂はなくてもあっても転生はある?未構成

この稿は、かなり以前書いたものを一応整理し、適当に次々と書き加えていっているので、書き流しであって、まとまっていません。重複している個所もあります。

そのうちにまとめるつもりです。



霊魂はなくてもあっても転生はある?・その他


昔の哲学は


昔の哲学は、神が主体のものが多かった、といわれています。

それは宗教の影響が強かったのでしょう。

あるいは、そういった哲学者たちにいわせれば、「神は実在する」なのでしょう。

世界第一級の哲学者たちが、そうだったのですが、現代人の多くは、それを笑うのでしょうか。

デカルトは、神の存在証明をしています。

それはキリスト教の影響においてなされたのでしょうか。

しかもデカルトは、霊魂の存在の証明にまで至ったようです。

霊魂はあるということは、転生もある、としたのでしょうか。

キリスト教は初期を除いて、転生はないとし、再生と、地獄・煉獄での霊魂の生、天国での霊魂の永遠の生、などといったことを主張しているようです。

デカルトはそういったことについて、どういった結論を導き出したのでしょうか。



さて、世界哲学(⊃質の科学。質の科学は世界哲学の一部)では、「意識」を主体にして世界観を構築しています。

こんなふうにです。

この世界でもっとも重要なのは「意識」である。
この世界において、なくてはならないものは「意識」である。

なぜなら、「意識」がないと、この世界はないにひとしいからである。

ちょうど、映画が上映されていても、それを観て意識し味わう人がひとりもいなければ、その映画はないようなものだ、といえるように。

注)その映画をつくったのは大自然だとします。
あるいは、大自然をその映画に例えた、といってもよいでしょう。

注)その映画をつくったのは人であるとしたばあいで、その人が、観客なんていなくても、つくっただけで満足だ、と思っているとしても、そういうことを思って意識し味わう「意識」がそこにあるわけであり、そこに意味・意義があるわけであるから、やはり「意識」がこの世界でいちばん大切である、という立場はやはり成り立つといえます。

注)仮に、大自然をつくった存在に意識があって、
「我以外には、意識ある存在なんてなくてよい」と思っているにしても、我々人類にはそんなことはまったくわからないし、我々人類にも意識を与えよ、と思うはずであるから(その場合、意識はなくても思考力はある)、やはり「意識」がもっとも重要である、といえます。
それにその条件で、大自然をつくった存在も、「やはり、意識ある存在がたくさんいないと、寂しいし、やる気はでないし、面白くないし、なにもする気がなくなる」などとなっていくにちがいないでしょう。

その「意識」というのは、人間のばあい、脳の小さな一部に対応しているようにみえます。

注)対応、と記したのは、意識が脳の一部という物質の組織にある・あるいはその活動によって生じる場合と、それに、それ以外の在り方・たとえば霊魂のような存在がその部分で脳とつながっている、といったようなケースも含めているからです。

意識の存在する実体を「意識の主体」と名づけます。

(それは、脳の中心部あたりの網様体にあるのかもしれない。
そこが意識の主体に対応しているのかもしれません。ただしこの項はまちがっていてもこの論の正否には関係ありません。それらについてはこのブログのあちこちで詳述しました。ちなみに、デカルトは脳の松果体に霊魂が宿っているといっています。松果体のすぐ近くに、意識の水準を司る、その網様体があります)

「意識の主体」というのは、「意識が生じる器・ハードウェア」、あるいはそれに加えて「そこに生じる意識」、あるいはそれに加えて「人によって意識は異なるという性質をもつところの意識という意味・概念を含めた意識=自分という意識」のことです。

ここで、「意識」が生じる器の材料も、「意識」と同じように重要だということになるのですが、その解説は別な論に載せました。

この段階では、「意識の主体」は、脳の回路(組織)のようなもの、あるいはその活動によって生じるものかもしれないし、霊魂と呼ばれるべき存在・霊魂のような存在かもしれない、あるいはその他の存在かもしれない、という立場にたつのが妥当であると考えてみましょう。


さて、一応の解説がすんだここからさらに進めます。

1)意識の主体には、行為・体験によって、それに応じた変化がつく(物理的な事実のようであるが未検証)。
ある体験をしてつく変化と、それとは正反対の体験を同じ量体験してつく変化は正反対で同じ量である(物理的な事実のようであるが未検証)。
つまり、ある体験をしたあと、それとは正反対の体験を同じ量体験すると、その変化は元に戻る(物理的な事実のようであるが未検証)。
その変化が戻されないと、変化が限界に達して、意識の主体は壊れてしまう(物理的な事実のようであるが未検証)。
その変化が元に戻されると、意識の主体は壊れることがない(物理的な事実のようであるが未検証)。
その変化は必ず元に戻される(公理;この世界でもっとも重要な意識の主体を守り壊さないための仕組みがある。あるいは、体験には正と反が同じずつあるので、確率的にもそういえる。その証明はできそうにない)。
その変化が元に戻されるということは、人は皆、ある体験をしたら将来必ずそれとは正反対の体験を同じ量体験することになる、ということである(物理的な事実のようであるが未検証)。
よって、人は皆、ある体験をしたら将来必ずそれとは正反対の体験を同じ量体験することになる(以上の公理と物理的な事実からでてくる法則。未検証)。
それを「体験総量プラスマイナスゼロ化則」「質時間回帰則」「精神的収支均衡の法則」「科学的カルマ」などと名づけます。

2)任意の人(どの人もすべて。すべての人が一人一人)の死後、その人の意識の主体とまったく同じ人が生まれてきたら、それはその人の転生である。
それについて、まず、意識の主体という器(ハードウェア)は脳の一部である、という立場にたって考えてみましょう。
その立場では、意識の主体の総数よりも、生まれてくる人間の数の方がはるかに大きいからそういえるということになるのです(計算するとそうなっている)。
もっと詳しく説明します。
意識の主体が脳の一部である回路のようなもの(物質の組織、またはそこの活動によって意識が生じる)だとすると、そこの物質の元の組合せから、意識の主体のちがい(Aさんの意識、Bさんの意識、Cさんの意識・・・)というものが生じていると考えるしかない(そう考えてみる)。
その物質の元の組合せの総数(意識の主体の総数はそれよりも少ない)を計算してみる。
さらに、そういった元の総数が桁外れに多い人体(人)の可能な総数を計算してみると、その総数は、意識の主体の総数よりも、桁外れに多い。
ということは、今までに生まれてきた人の総数が、意識の主体の総数を越えてしまっているとすれば、同じ意識の主体をもっただれかは、転生していた、ということになる。
その越えた程度が、何倍もであれば、すべての人は転生してきている、と、ほぼいえる。
その越えた程度が、何倍も、をはるかに越えていれば、確実に、すべての人は転生を続けてきている、といえる。
そういった時点が未来のことであれば、未来のその時点でそういえることになる。
以上が、霊魂のようなものはなく、意識の主体は脳そのものかその活動にあるという立場での、転生の証明のようなものの大筋です。
霊魂がありそこに意識の主体はある、という立場にたっても同じく、転生はある、となります。なぜなら、霊魂の総数よりも生まれてくる人の総数の方が桁外れに多い、と計算されるからです(ここは少しムリがありそうだが)。

結論として、霊魂はなくてもあっても転生はある、ということになります。

(それでも要検証ですが)。


1)と2)を組み合わせれば、すべての人は転生していき、転生を通じて、「体験総量プラスマイナスゼロ」になっていくという結論に至るわけです。

「体験総量プラスマイナスゼロ」になっていく法則を、
「プラスマイナスゼロ化則」、
「精神的貯金と借金の収支ゼロ化則(精神的収支均衡の法則)(精神的というのは霊的なのかもしれない)」、
「体験総量元戻り則」、
「科学的カルマ」、
「質時間回帰則」、
などとも名づけます。



それらふたつの項目1)と2)には、証明のようなものがあるわけです。

ただし、検証が完全になされているわけではありません。

検証のできない部分もあることでしょう。

そういう場合は、哲学的アプローチをなすしかありません。

科学というのは、証明と検証が必要ですが、哲学というのは、説得力があればよく、証明も検証も要りません。

哲学というのは、多くの人たちが「ほほう。なるほど」と思うような論理展開ができれば、それだけでいいわけです。

あるいは、ほとんどの人には(あるいは誰にも)理解できなくても、権威として祭りあげられればそれで成り立つわけです。

世界哲学は、質の科学を用いずに哲学的アプローチだけでも、成り立たせることができますが、普通には質の科学も用いています。

つまり、それらふたつの項目1)と2)は質の科学の基礎となっており、世界哲学の構成部分ともなっている、といえます。


世界哲学(⊃質の科学。質の科学は世界哲学の一部)では、さらに、哲学的手段で、大きな世界観を導き出しています。

その哲学的手段というのは、文章化した次の考え方(命題)などを公理(あまりにも当然なので証明不要である前提。あまりにも当然であるが証明はできない前提)として用います。
「意識がもっとも重要」
「すべての人は完全に平等になるべきである」または「すべての人は完全に平等になるようにこの世界はできている」
などです。

質の科学を用いずに、その中の、「すべての人は完全に平等になるべきである」だけを用いても、
「転生はある」
「質時間回帰則がある」
「宇宙は永遠に続いていき、人類のような意識をもった生物は、生まれ続い(け)ていく」
などという結論がでてきます。

それはすごいことに思えます。

まず、同時にすべての人を完全に平等にすることは不可能なので、時間をかけてそれがなされる、という結論が導き出されます。

ついで、そのためには、どうしても転生がなくてはならない、ということになります。

さらに、完全な平等は、数百億年程度の期間では、達成されることはなく、それよりはるかに長い時間がかかる、ということになります。

したがって、宇宙は、現在のビッグバン宇宙論が提示するよりもはるかに永く存在しつづける、消滅と生成を繰り返しながらでも、という結論に至ります。

くわえて、それ以外の論理展開によって、宇宙は永遠につづいていきそうである、という結論に達します。

そういったふうに、世界哲学は、多くの人たちに納得のいく前提と論理展開で世界観を築き上げています。


そこにおいて、それをもう少し科学に近づけるために、「すべての人は完全に平等になるべきである」、「すべての人は完全に平等になるようにこの世界はできている」という主張が正しいのかどうか、つまりこの世界がそうできているのかどうか、証明と検証ができれば、もっと説得力が増すでしょう。

そのひとつの手段として、人類全体の多数決にかける、ということも考えられます。

その多数決で、「そのとおりだ」という挙手が過半数をとったら、実際この世界がそうなっているはずだ、と考えてみる。
考えてみるだけなら問題はない。
ただし、それが証明と検証になっているという保証はない。

たとえば、この世界の法則に反するようなことは、そういった多数決で過半数をとっても、現実がそうであることはできない。

たとえば、「すべての人が同時に完全に平等であるようにこの世界はできているべきである」という内容は実際には不可能である。

そういった要素はある。

それを証明と検証に用いるための論理・研究といったものがあってもいい。

「すべての人が完全に平等になるようにこの世界はできている」という主張のばあいは、この世界がそのとおりにできている、ということはありうる。

それは、時間をかけて、すべての人が平等である在り方である。

そういう世界は実際に可能である。

そのことは質の科学でわかる。

そういうふうに、可能である主張について、そういった多数決で支持されたら、現実もそのとおりである可能性はある、とはいえるだろう。




さて、
質の科学の方は、科学と謳っているので、哲学的な前提は用いません(稀には一部使うこともあるかもしれませんが)。

質の科学は、科学的だと思われる手法・論理展開だけで、この世界の基本的な謎に挑戦しています。

そこにおいて、
意識というものが人にはある、ということは当然の前提としています。

さらに、
その意識が生じる器(=意識の主体)が存在する、ということもまた当り前のこととしています。

注)稀には、「意識の主体」を意識内容などと区別するために、意識という意味に近い用語として用いることがあります。

そして、その意識の主体とはなんであるのか追求し、意識の主体につく変化を研究して、結論を得てきたわけです。

注)意識や心などのモデルと定義については、別な論で展開しています。




さてここで、
質の科学と世界哲学の発見に至った過程を振り返ってみます。



こんな疑問、
自分とまったく同じ人が今現在存在したら、いったいどういうことになるのか、
そういういう問題設定から出発し、意識の主体は、脳全体ではなく脳の小さな一部に対応していることがわかりました(それでも要検証)。

宇宙はある程度以上永く続いていって、生まれてくる人間の総数はある程度以上大きいとする。

そうすると、意識の主体の総数よりも、生まれてくる人間の総数の方がはるかに大きい、ということになる(その永さ、その総数、に付けた条件はそういう結果をもたらす)。

すると、前に記したように、転生があることになる。



次に、
運動量保存則という物理法則があるけれども、ほかにも保存される量(ベクトルなども含めて)があるのではないか、と探し続けていた時期がありました。

するとある時、回帰する量(ベクトルなども含めて)を発見したのでした。

運動量時間回帰です。
このブログで前に述べた、惑星の公転による四季の発生も、運動量時間回帰で示せます。
それは順次回帰です。

それについて、
まず初めは、花粉のブラウン運動において、一次元と二次元では、花粉が原点に回帰する確率が1であることを知り、一次元で計算してみると、たしかに回帰する確率は1とでました(必要ないので、2次元では計算していませんが)。
それも運動量時間回帰となっています。
これはランダム回帰です。

注)運動量時間;運動量を時間で積分するとでてくるベクトル。位置ベクトルになっている。
運動量時間回帰;運動量時間がゼロベクトルになる時刻がとびとびに現れること。

そういったベクトル的な量が意識の主体にもあって、それは回帰するのではないか。
そういった量は、体験の質に応じて意識の主体につく変化であり、その変化が回帰するのではないか。
体験(の質)には、あるものがあれば、それとは正反対のものがあるではないか(ただし、単独質もある)。
つまり質は方向性をもっているではないか。
それは、運動量と運動量回帰則などに似ているのではないか、対応しているのではないか。

人がなにかを体験すると、体験の質に応じて、その意識の主体に変化がつくはずだ。
なぜなら、すべての存在は、なんらかのエネルギーを受けると、それに応じた変化を受けるからである。
そして確率的に正反対の体験を同じ量体験すると、その変化は元に戻ることになる。

しかし、
それによる回帰は、確率的回帰である。それでも体験の質ごとに分類すると、それぞれ一次元で扱えるから、回帰する確率は1となって必ず回帰する。
だが、その場合、すべての体験の分布がすべて1対1でなくてはならないし(その可能性は高い)、人間の意志によって、避けたりできる体験というものがでてくれば、回帰しないこともでてくるかもしれない。
しかし、結局、人間の意志によって、望む体験ができることは少ないので、やはり確率的な回帰はあるのだろう。

ふーむ、
確率的回帰か。
うーん、
その原理より優れた原理はないものだろうか。

そうだ、
意識の主体に、同じ体験によって同じ変化がつき続けていくと、そのうち限界に達して、意識の主体は壊れてしまうだろう。
すべての存在がそうなっている。
そこで、正反対の体験を同じだけ体験すると、ついていた変化は元に戻ることになる。
そうなると、意識の主体は壊れることから免れるはずだ。
意識の主体は、そういった存在だろう。
意識の主体を壊さないために、そういった仕組みがあるのではないか。
そうだ、この世界でもっとも重要な意識の主体が壊れないための仕組みがあるはずにちがいない。
(ここも、わかりやすくするために、結果として同じ結論になるかんたんな内容を記しました)。

という経緯で、より説得性のある理屈にたどり着いたのでした。

それだけではなかったのですが、そんな風に進んできたのです。


以上、かんたんに大筋を記しました。


(以上は、要検証でもある、ということも付け加えておきます。さまざまな手法によってある程度は検証がなされているとはいえますが)。




さて、意識についてもう少し詳しく考えてみます。

意識というのは、いったい何なんでしょうか。

意識は物質でないのは確かです。

とすると、意識というのは何なんだろう。

あらゆる方面から検討していくと、“意識"というのは、「エネルギーに伴われる波動の世界」という存在であるしかない、という結論がでてきます(そう考えてみる)。

それ以外に候補はない、と(そう考えてみる)。


脳というのは、物質の組織である。

物質の組織自体に意識が生じるようすは観察されない(ようだ)。

とすると、脳の中のなんらかのエネルギーに意識が伴われるというか、そこに意識が生じる可能性しかなさそうである。

なんらかのエネルギーの変化していくところに意識が生じる、のではないか。

それしか見当たらない。

ほかに可能性はなさそうである(そう考えてみる)。


脳の中で最も波動性が高いのは電子である(その他の微微微微細な存在たちは波動性はもっと高くても、結合して納まっていて、その波動性は現れないようである)。

脳の中で、最も波動性の高そうな活動は、いわゆるニューロンの発火である(という見方をしてみる)。

そのばあい、その主役は電荷(マイナスの電荷は電子、プラスの電荷は陽子、がそれぞれ担っている)である。

陽子の質量は電子よりはるかに大きいので、陽子の波動性は電子よりずっと小さい。

したがって、ここでは電子に着目してみる。



意識というのは、一体性・全体性を形づくっている。

ことばを変えれば、意識というのは意識として完成しているということ、である。

意識内容も、ひとコマひとコマ、という感じで完成している。

ここでの、完成しているという意味はこうである。

なにか考えているばあいでいうと、考えが全体としては完成していなくても、ひとコマひとコマとして完成している、という意味である。


そこで、脳の中の電子に戻って考えてみる。

電子というのは、脳の中では一番波動性が高いとみなせる。

ふたつの電子が特定の特殊な関係を築いたばあいは、それらがどんなに離れていても、瞬時に光速を越えて特殊な情報をやりとりできる、という現象を現すが、それを除いては、同じ原子や分子に属していない限り、電子というのはバラバラである、とみなしていい。

つまり、そこにおいて、電子は、粒子的(物質的)にも波動的にも、バラバラであって、一体性・全体性を形づくることはない、という結論に至るわけである。

つまり、結論としてこういうことになる。

脳というのは、物質の組織としては一体性・全体性を形づくっているが、波動性においては一体性・全体性を構成することはない。

先にでた結論として、意識は一体性・全体性を形づくっている、という項目があった。

ということは、脳という物質の組織またはその活動に、意識が生じることはない、という結論に達する、ということになる。

とはいえ、そう考えてみただけであって、それも要検証である。




先に、霊魂はなくてもあっても転生はある、という結論を得ている。

それは筋のとおった考え方によっている。

とはいえもちろんそれも要検証であるが(これはしつこいほどに書かないと誤解・曲解されるので、何回でも書きます。本当は、こんなこと書かなくてもいいような在り方が欲しいのだけれど)。


その転生においても、質時間回帰則が働くと、質の科学では予想する。

もちろんそれも要検証である。


そして、将来、宇宙が途中で止まるというか、人類のような生物が生まれなくなったら、質時間回帰もそこで止まるわけである。

質の科学では、それ以上はわからない。

つまり、質時間回帰は永遠に続いていくのかいかないのか、という命題にまでは質の科学は適用できない。

そこからは別の分野となる。

質時間回帰則が正しいとわかった上でのことであるが、次のようなことがいえる。

たとえば、自然科学が「宇宙は永遠に続いていき、人間のような生物は途絶えることはあっても永遠に生まれ続いていく」ということを証明し検証したら、質時間回帰は永遠に続いていき、すべての人は完全に平等である、ということになる。

ほかにも、「宇宙は永遠に続いていき、人間のような生物は途絶えることはあっても永遠に生まれ続いていく」という世界は可能であるから、そこでは先に述べた、人類の多数決のようなものを採る方法もあるだろう。



宇宙が途絶え質時間回帰が止まるということは、先に述べた「すべての人が完全に平等になるようにこの世界はできている」という世界であったとしても、その平等は中途半端で終わる、ということである。

その意味をもう少し具体的にいうとこうなる。

どうやっても、すべての人が同時に・同じ時刻において、かつどの時刻においても、常に完全に平等であることはできない。

現在のこの世界のような在りようしかない。

それは、質の対生成と、質の分布と、質時間回帰、などの概念をもつ「質の科学」からわかる。

そういう世界しかない中で、すべての人が完全に平等である(平等になる、でもよいがその表現は曲解を招く。いつか平等にはなるが、その途中では不平等であり、総計するとやはり不平等だ、という誤解が生じやすい)ためには質時間回帰がずっと続いていって、総計してすべての人が完全に平等である必要がある。

質時間回帰が途中で止まると、完全に平等というわけではなくなる。


そこのところをもっともわかりやすくいうと、こうなる。

まず、意識(の主体)と意識内容は区別される。

ここは非常に大事なポイントである。

コンピュータで例えると、意識(意識の器。意識の主体)はモニタであり、意識内容は画面にでてくる映像である。

自分が自分であるのは、基本のところで意識によるのであり、その意識が決して変化しない自分であって、意識内容はいくらでも変化できるし変化していく。

ここは分かりにくいところである。

もちろん、自分が自分であると感じるのは、意識内容があればこそであるが、自分を自分と感じるのは、意識によるのである。

例えば、Aさんの意識内容をBさんの意識に送り込むと、どうなるか考えてください。

ここは、図解なしで文章だけで解説しても、なかなか伝わりそうにないが、一応表現してみます。

今までAさんが「自分はこんな人間だ」と意識していた意識内容を、そこでは、Bさんが意識し味わうので、Bさんは自分はAさんだという意識内容を意識し味わうが、それでもBさんはBさんという意識をもって意識し味わっている、ということになる。

つまり、意識と意識内容は別物であるし、自分が自分であるのは意識によるのであって、意識内容には依らない、ということである。

さらにたとえば、目をつむって耳をふさぎ、何も考えないようにしてみると、意識内容に乏しくなって、まあだいたい意識だけの状態に近くなるが、それでも自分が自分であるという意識は変わらない。

さらに、意識内容をどう変化させていっても自分という意識は変わらない。

さらに、人は脳のかなりの部分を失っても、自分という意識は変わらず存在する。

そういったことから、意識と意識内容の区別が必要であるということが分かる。


意識内容というのは、体験なのである(定義による。体験は意識内容に変換される、といってもよいが、それでは弱い)。

言動、感じること、考えること、想像すること、経験、などなどそれらすべてをひっくるめた体験なのである。

それ以外に体験はないのであるが(定義によるが)、もう少し詳しくいうとこうなる。

そういった体験が情報として心などで処理されて、処理されたその体験の情報(心的情報)が意識に送り込まれ、意識し味わわれる。

そこにおいて、意識がないと文字どおり意識されないのである。

よって体験は意識内容そのものである、といえる(ここの論の流れの中では)。

くわえて、心(顕在心)も意識内容といえる(この論の流れにおいては)。

人間の精神というか心というか形而上的情報処理機能というか、による形而上的情報処理は潜在心(普通にいう潜在意識。この論の定義体系による名付け方ではそうなる)は、意識されないが、それは意識されない心的計算機能をもつ、といえる。


そこにおいて、意識に送り込まれる情報というのは、なんらかのエネルギーの組織・パターンとその変化なのである。

それ以外には見つからない・ない。


(ここからの一部は先に述べたことの別な表現になります。この論は構成を考えずに毎日のように書き継いでいるだけなので、まとまっていません。ほかにもそういうのは多い)

すべての存在は、なんらかのエネルギーを受けたら、それに応じた変化を受ける。

それに応じた変化が付くのである。

意識の主体もその例外ではない。


しかも、どんな存在も、その受ける変化の耐性に限度というものがあって、限界を越えたら壊れてしまう。

意識の主体も当然そうである。


ということは、同じ体験をしつづけていって、意識の主体に付く変化がその限界に達したら、意識の主体も壊れてしまう、ということである。


意識の主体はこの世界で、大変に重要なものだ(考え方によっては最重要)。

したがって、意識の主体を壊さない仕組みがあるのではないか、ということになる。

人間のつくったものにも、さまざまに、壊れない・壊さない仕組みが設けてある。


そういった意味で意識の主体が壊れないためには、同じ体験だけでなく、それと正反対の体験を同じ量体験すれば、ついた変化が元に戻るので、意識の主体は壊れない、という結論がでる。

つまり、ある体験をしたら、それと正反対の体験を将来同じ量体験すれば、変化が元に戻るので意識の主体は壊れない、ということである。

それは、途中をはしょった説明であるが、詳しくは別なところに記してあります。


意識の主体が壊れないための仕組みがあるということは、「ある体験をしたら将来必ず正反対の体験を同じ量体験することになる」ということが必ず起こるシステムがこの世界にある、ということである。

仮説的であるが、そういった仕組みは、気象状況で例えることができる。

高気圧から低気圧へと大気が流れていく、という状況に着目する。

もちろん一直線にではなく、渦を巻く形でとか、曲線的に、とかある。

別なコラムで叩いている欧米、のようにマイナスの質時間が膨大に溜っている所を低気圧に例える。

(いろいろ書いているので、ここは別なコラムと混同してしまいました。しかしこのまま続けます)

(この例えでは、複数の内容を考慮しなくてはならないことに今気づいたので、ここは、研究中ということにします)。

でもまあ、進めると;
それでいくと、マイナスの質時間が少ない(あるいはプラスの質時間が溜っている)所は高気圧となる。
高気圧から低気圧へと大気が流れていく。
その大気というのは、よりマイナスなところに向かっているので、この場合の大気というのは、マイナスの体験ということになる。
マイナスの体験というのは、今まで欧米がいい思いをしてきたといえる体験とは正反対の苦しい体験のことである。

で、ここでは、高気圧は特定の地域のことを特に指そうとしてはいないのであるが、初めの例えからして、



(続き)
で、ここでは、高気圧は特定の地域のことを指そうとは特に意図していなかったのであるが、初めの例えからいくと、マイナスの質時間の総量が少ない、またはプラスの質時間を蓄えている、地域、となってくる。

(ノートやほかのコラムたちで何回か書いたときにはその点には気づかなかった。少し進歩あり、というところだろうか)

そこを解釈すると、こうなるだろう。

世界の歴史の中で、「ある国々」は(この、ある、は単数用の冠詞ではない。特定の、といった意味を含むが、特定はせず、そういった対象たちの一団は複数ある、そういった冠詞である)「別なある国々」に痛苦を与えた上そこから利益(不当な。不当ではあるが、質の科学でみると別な要素もある)をあげてきた。

そのことは同時に、その「ある国々」はマイナスの質時間を膨大に積み上げてきた、ということである。

ここは実と虚(目に見えないこと)の関係というか、表と裏の関係というか、非常に興味深いつながりになっている。


一方、その「別なある国々」は、プラスの質時間を積み上げてきた(その結果、マイナスの質時間が大きく減少した状態になったか、いくらかプラスの質時間が溜った状態になった)、ということである。

ここも実と虚(目に見えないこと)の関係というか、表と裏の関係というか、非常に興味深いつながりになっている。

しかも、それらがさらに複雑に絡み合った状況をも見てとれる。

つまり、その「ある国々」が利益をあげれば(その「別なある国々」から不当に)マイナスの質時間が溜る(プラスの質時間をもっていたとしたら、それが減る。そういう在り方だと、質の科学でいうと必ずしも不当とはいえない)ということと、その「別なある国々」に不当な痛苦を与えれば、その「ある国々」のマイナスの質時間が増える、というようないくつもの要素が複雑に絡んだ実態(質の科学上の)があるということである。

ここはややこしいので、基本をおさえて記すとこうなる。

人間は質時間をかかえている・もっている。人間の意識の主体に体験に応じた質時間という変化が付いている。

人間によって構成される、人間の集団(小さな団体から、地域、社会、国家、世界全体まで、さまざまな大きさがある)も、その構成人たちの質時間の総和という質時間をかかえている。

人間の体験(結局、人間が意識し感じ味わうことになるすべてを指す)には、意識の主体にマイナスの質時間という変化を付けるもの(=プラスの快の体験と名づける)と、プラスの質時間という変化を付けるもの(=マイナスの快の体験と名づける)がある。

平たくいえば、いいこと・楽しいこと・得なことを体験すると、マイナスの質時間が意識の主体に付き、それとは反対の、よくないこと・苦しいこと・損なことを体験すると、プラスの質時間が意識の主体に付く、ということである。

実際には、(同じマイナスの、あるいはプラスの)質時間といっても、さまざまな種類・質がある。

そこは省略して記している。

そういった体験が、他人や他人たち、他の団体などと関わっている場合は、その他人や他人たち、他の団体などとの間に質と質時間のやりとりが起こる。

そこをもう少し詳しくいうと、AがBに何かを為したら、その関係によって、AにもBにも質時間が付く、しかし、その質時間は足しあわす(足しあわせる)と(足しあわせても)プラスマイナスゼロにはなっていない、ということである。


ちょっと脱線するが、そこから興味深い結論が導き出せる。

それは意外な現象を指し示したものだ。

人が昇天しても、質時間は消えないで残る、というものである。

そこから、霊魂のようなものがあって、人は昇天してもそれに付いた質時間という変化は消えず残る、という解釈がでてくる。

筆者はそれには驚いたものだった。

同時に嬉しくもあった。

それをノートに書き記したことがあるのだが、その証明性は完璧に高いとは思えなかった。

そこは残念だった。

しかし、そのうちに、そこにももう少し深入りしていきたいと思う。


さらに脱線します。
霊魂のようなものがありそうだ、という結論に至る論理展開には、ほかのやり方もある。

それはかんたんにいうとこうなる。

意識の定義として、「意識とは、医学的に意識があるという意識に近く、意識し味わう機能・現象のみのことをいい、その他の機能はもたない」と設定する。

もちろんそれは要検証である。

つまり、それが現実を記述しているかどうか確かめる必要がある、現実がそのとおりになっているかどうか確認しなくてはならない、という条件がそれにはつく。

さらに、意識は「一体性・全体性を形作っている」とする。

つまりそれは、意識内容というのは、情報として完全な形をもっているということではなくて、ひとコマひとコマ、一体性・全体性を形作っている、ということでもある。

その上でさらに、「意識とは何か。脳という物質の組織に生じるのか、またはその活動において発生するのか。あるいはその他の在り方か」と問う。


脳とは物質の組織である。

脳の中で、そこを欠くとその人の意識がなくなる、という部位がある(あるいは加えることの、ようにみえる)。

そこに、または、そこの活動に、意識が生じると考えてみる。


人間の器官の機能は、図示して解説すれば理解できる。

ところが、意識や心、などだけについては図解して説明してもまったく納得できない(あるいは、図式化できない)。


その部位は物質的には一体性・全体性を形作っている(あるいは加えることの、ようにみえる)。

そこに意識が生じると仮定して、しかし、物質的に一体性・全体性を形作っていることが、いったい何になるのだろう。

見方によっては、そこは物質的にもバラバラである、たんに結合しているだけで、という見解も成立する。


心・意識についてはなにもかもまったくわからない。


まず、意識の器について考える。

意識は物質そのものではない。

では意識というのはいったい何なのか。

1。可能性として、エネルギーに伴われる(伴う)波動の世界である、という結論しか見出せない。

波動性において一体性・全体性を形作っている何か、そんなひとまとまりのなんらかのエネルギーが意識の器であり、それの波動パターンとその変化が意識内容である、そういうモデルしか見出せない。

脳という物質の組織、その中でもっとも波動性の高い電子、それらだけでは、波動的な一体性は絶対に形作れない。

そこにも、そのモデルの必然性がある、と考えてみる。

それが、脳を覆っている、と考えてみる。

それが、脳のさまざまな部位と相互作用・相互情報交換のようなことをなしている、と考えてみる。

それ;「ひとまとまりになったなんらかのエネルギー」(これは集まった存在というニュアンスがでてくる)あるいは「ひとまとまりのなんらかのエネルギー」(これは、集まった存在というニュアンスは必ずしももたないので、前者とは少し異なるが、同じものとみなす)のことである。


2。くわえて、脳の構造をみても、ニューロンたちと、脳を構成する物質的素子たちの連絡だけでは、情報のやりとり経路が絶対的に足りないようにみえる、と考えてみる。

そのことは、そのモデルは現実をモデル化している可能性があると考えてみる。

3。おまけに、ノーベル賞科学者・南部陽一郎氏の「ひも(弦)理論」、そこから発展してきた「超ひも(弦)理論」も、そういった方向性をももっているので、そのことはそのモデルの現実性(現実がそうなっているという可能性の程度)をより高める、と考えてみる。

4。さらに、先に述べた、人が昇天しても、その人の意識の主体に付いた質時間は消えず残るはずだ、という可能性の高さをもってくると、そのモデルはうってつけである、と考えてみる。

5。もうひとつ先にのべた、「他の器官たちとは異なって、いままでのやり方で図解しても心と意識だけは理解できない」、ということからも、そのモデルは説得力がある、と考えてみる。


よってそのモデルが現実に対応している可能性は高いと考えてみる。



今、分業説にたって考えてきているわけであって、まず、意識について考えたので(一部、心も含ませた)、次いで、心について考える。

その順になる必然性としては、意識のほうがより重要であると思われること、意識の方がわかりやすいと思われること、心の器は意識の器と同じようなものであると思われるが、それになんらかの計算機能・情報処理機能がついていてより複雑であると思われること、そういったことがある、と考えてみた上でのことである。

では、心の器について考えてみよう。


その前に実際には、心脳における数多くの、可能な定義と用語を全部列べあげ、その中のどれが現実を描写・記述しているか検証し、体系化する作業が必要である。

それを別な論で行っている。

その作業はかなりの程度進んでいる。

しかしその作業は、この稿で行っているような研究と歩を共にしながらでないと完璧には行えないと筆者は感じる。

よって、このままここを進める。

付け加えると、この稿におけるそういった定義は、この論に一番向いたものである、というか、この論用のものである。

したがって、要検証という条件がつくのはいうまでもない。


では、心の器の、ひとつの定義とモデル、に至るアイデアを述べる。

1。脳に直接マイクやカメラ(受光素子)をつなぐと、その情報が有効に活用されるように、神経回路が形成されていく、という事実があるようなので、そこから次のような結論が導きだされると考えてみる。
それをコントロールしている存在は、脳自体にはありそうもなく、そのモデル*この場合、心の計算中枢。モデルとしては、意識の器に(と)ほぼ同じで、それに何かが加わる*がそれ(ひとまとまりになったなんらかのエネルギー+α)である、と考えてみる。


「心の計算中枢の器=潜在心(ふつうにいう潜在意識)の器」(さまざまな実態からいってそれは「意識の器」とは異なると考えてみる)
「普通にいう心=意識内容」(意識内容とは、意識の器に生じる波動パターンとその変化)


2。人間の「笑い」について、その仕組み・構造を解明していくとして、「笑い」とは、元になる波動パターンと、提示される「笑い」を誘う波動パターンが、干渉を起こして、その歪み(ひずみ)みたいなものつまりそこで発生する波動パターンが「笑い」の正体である、という結論しかでず、ほかにはありえないとわかったら、「心の計算中枢の器(心の器)」は、「ひとまとまりのなんらかのエネルギー+α」であることになる、と考えてみる。

3。意識の器の項で述べた「意識の器、2。くわえて、脳の構造をみても、ニューロンたちと、脳を構成する物質的素子たちの連絡だけでは、情報のやりとり経路が絶対的に足りないようにみえる、と考えてみる。」もそのままここに加えるべきである。



参考)これは上のどちらにも属さないのであるが、参考になるので書いておく。

チャイナ医学のツボか経絡には、医学的・生物学的には、なんの実体もないが、しかし効果がある、という結論があるようだが(うろ覚えで非確認)、もしそれが事実であるとすれば、目に見えない何かを想定しないとならないのかもしれない、と考えてみる。




そういう存在が「心の計算中枢の器(心の器)」であったとしたら、「ひとまとまりのなんらかのエネルギー」があるということになるので、以上のふたつ(1。と2。)は、意識の器がそういった形で存在している、ということの補強材料にもなる。

それと同じように、意識の器のその五つ(1。~5。)も、心の器がそういう形で存在している、ということの補強材料にもなる。




筆者は別な論において、ひとつの思考・情報処理モデル(共振素子知能組織)の研究を不完全ながら挙げている。

そのモデルは、上述の「潜在心」の思考・情報処理モデルにもなりうる。



で、ここで、どうやってそういった形而上的情報処理が行われるのか、それが可能でありそうなモデルを提示してみる。

注)形而上的情報処理;なんと名付けるか苦労してきた結果こう名付けた。
その解説は別な論にある。
いずれ、ハイパーテキストタグでリンクさせようと思っています。
で、これではわかりにくいし、思考・情報処理や心脳における情報処理という表現では、不完全だし、脳という物質の組織以外の活動も射程に入れないといけないと考えているし、などなど、そういうことがあって検討中です。

注)とりあえず、
潜在心における情報処理=「潜在心情報処理」、でいきます。
さらに略して「潜心計算」。
いやそれよりも、「潜在心活動」=「潜心活動」の方がいい。


で、そういった潜心活動のひとつのモデルを挙げてみる。

それはつまり「ひとまとまりになったなんらかのエネルギー+α」のひとつの活動モデルを提示することである。

注)ここで、「ひとまとまりになったなんらかのエネルギー+α」を「潜在心の器」、あるいは、「潜心の器」「潜心器」と名付ける。


その「潜心器」のモデルとして、







ここで、「こういった方面の研究状況などの報告」をしておきます。


私の論「心脳の工学的構造」の末尾に、「蛇足予想」を付け加えているのだが、それには、8項目ぐらいの根拠がある。

そこには、強烈な根拠もあれば、さほど説得力のない根拠もあるが。

で、今現在も、そういった心脳の工学的構造モデルとそのシステム明細を構築中である。


それは発明とその特許申請書の書き上げと同じ要領でいくしかない、そう考えてみる。


私は発明を数多くやってきたし、特許申請書も三通書き上げている。

アイデアの段階はすごく楽しい。

それを製品化できるところまで詰めていく過程では、実に苦しく大変になっていく(かんたんな発明は別として)。

それを特許申請書にまとめ上げ完成させるのも、のたうちまわるような状態で行うことになっていく。

おまけに、正確な図をいくつも書かなくてはならない。それも辛い(適当なスケッチなら楽しいこともあるが)。

すべて独学でやってきたので、よりいっそう大変だったんだろう。


そういう経験があるので、その要領で、心脳の工学的構造モデルとそのシステム明細を構築しているところである。

現在わかっているデータと思考実験などを基に、推測しながらである。

心脳の工学的構造モデルとそのシステム明細は、コンピュータを参考にできる部分はありそうだが、根本的にまったく異なっていそうである。


実際、脳という生物工学的実体があるのだから、工学的にいくべきだ、という立場は有効だと考えてみてのことである。

もちろんそこからでてきた結果は要検証である。

現実どおりのモデルとシステム明細なのか確認しなくてはならない。


で、きわめて意外なことに、宗教関係の本がこういった方面の研究に役立つ。

ただし、200冊に一行くらいヒントになる個所がある、という程度である。


哲学・思想方面は、今までのところ役に立っていない。

大学時代、二人の先生に講義を受けたり話しをしたり、そのあとは哲学・思想関係の本をちらちら見てきた(ルソーの「人間不平等起源論(このタイトルは正確かどうか?)」は和訳で全部読んだが)のと、ネットでちらちら見てきている範囲でのことであるが。

ただし、稀には、哲学が、科学の有効な先導役をやったり思考原理を提供したりヒントになってきたことはいくらか知っている(易経や東洋思想もそうである)。


そのモデルとシステム明細が完成し、検証の手段のひとつとして、哲学・思想などを役立てることができるかもしれない。

ただし、その場合、そういった哲学・思想の中で、現実を記述している部分だけが使える、ということはいうまでもない、と考えてみる。


その上で、完成し検証されたそのモデルとシステム明細で、哲学方面の用語や定義、体系なども構築あるいは検証できる、と考えてみる。

私が別な論で展開している、こういった方面の可能性を追求した多種で多数の用語や定義なども、そこで確定できる、と考えてみる。


さらに、それらを多くの人が認めれば、それらが有効である、ということになると考えてみる。


検証のための装置は今のところ夢のまた夢という状況だろう。


以上、研究状況などの報告でした。




直近上と並行して、ニューロン活動やニューロンのネットワークに、どの程度の自立性・自律性があるのか、それらを統御している中枢はないのか、などについて調べてもいる。

その工学的応用として、電子回路によってある程度の情報処理ができるところにまできているということもわかった。

今のところの結論として、それらに、初歩的な自立性・自律性はある程度ありそうだ、というところに至っている、そう考えてみる。

さらに夢についても調べてみた。

かなりのことがわかってきているようだ。

「夢は脳幹の橋で発生し、右脳で形作られる(ネットから引用)」ということだそうだ。

いやはや、これはものすごいことだ。

夢に関連してまだいろいろある。

そこはきわめて興味深い界隈である。

そこから、ものすごいものがでてきそうな予感がする。

実はもう仮説が立ちはじめているのだが。

そこらも経過した結果もやはり、予想がつく。

といってももちろんそれらは仮説のようなものであって要検証である。


その先にあるものは、やはり、上の「こういった方面の研究状況などの報告」にしかない、と考えてみる。

注:この、「と考えてみる」という表現は、「いろいろ考えられるが、今はこれに着目・注目しており、それは予想や仮説のようなものであって、もちろん要検証である」、という意味である。
こう書くのは手間がかかりすぎるので、くふうして得た表現である。
これを書かないと、誤解・曲解され、バカ扱いされかねない。

注:その他にもいえることとして、表現というのは非常に難しいものである。
しかも私は、手間と時間の制約によって、イメージスケッチ、流し書き、手抜き書き、ばかりしているので、そういったことも付け加えるようにしています。



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(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)

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